槙峰の記録

鉱山の里「槇峰鉱山」の歴史を残すブログです

日平鉱山


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明治時代の資料です。
日平鉱山の製錬所は槙峰鉱山の日平鉱山住宅の所にありましたが坑口の位置については分かりませんでした。
図を見ると製錬所上の方に松崎南坑と松崎坑が確認できます。

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googleの衛星写真では黄色の丸印の位置になります。
(矢印は旧道)
また製錬には水が必要になりますがこれは美々地谷川からトンネルを通して取水したようです。

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北方町(明治30年代) 山頂の鉱石を索道と斜面捲で製錬所まで送っていた。
「延岡・日向・東、西臼杵今昔写真帖」より一部抜粋

鉱山の日平社宅あたりに製錬所(下写真NTT電話交換所)がありましたがその付近の写真と思われます。
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「山頂の鉱石を索道と斜面捲で製錬所まで送っていた」
と書かれてあるのでそれに従って調べてみます。

googleMAPで日平製錬所があったNTT電話交換所付近から山の方へ一直線にたどっていくと何か捨石場のような地形(黄色丸枠)があります。
その直線の中間地点(下矢印)は道がつながっていて何か設備があったと思われます。
なおこの道を三叉路(右矢印)からストリートビューで見ると草木に覆われは現在は使われていないようです。
推測するに山から掘り出された鉱石は矢印のところまで索道で運ばれ、そこから斜面捲で製錬所まで送られていたのではないでしょうか。



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開校は明治29年3月で、写真はその後のもの。高等科を併合してコの字型の校舎と
なり、児童数も600人に及んだ。内藤家は子弟の教育にも熱心で教育の学費を補った。6年生になると延岡への修学旅行が実施され、徒歩で10時間かかったという。帰りの最大の楽しみは紅白饅頭だった。(画像:内藤記念館)


日平小学校が廃校になったのは大正7年(1918年)ということなのでちょうど100年前です。場所は集落の上の方にあったようです。写真では道が写っていますがはっきりとした場所は分かりません


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社宅及び長屋(北方町槇峰 明治末期)
槇峰鉱山黒原発電所上部宙部からの遠景。上部に小学校、神社、病院が見える。
中央下部崖の上の小屋は時報所である。右下方の三本の道路が運搬路及び通勤道だった。(所蔵:内藤記念館)

日平鉱山の住宅の写真ですが現在の場所と照らし合わせてみました。
手掛かりはカーブした沢のような所と山の稜線です。

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googleで見てみると同じような場所があります。
ここは木材の伐採の際、およそ100年前の居住跡や生活跡が発見された場所で、大勢の人が居たことが分かります。

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当時槙峰に住んでいるときは日平の鉱山や住宅のことは知りませんでした。

また沢の左側には日平鉱山の製煉所がありました。(写真下)

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地域誌に掲載された記事の抜粋です。

「日平銅山の住宅跡

ひな壇状の石垣が露出
延岡市北方町、日平銅山の従業員住宅が姿を現した、同地は最近まで樹木に覆われ、その様子をうかがうことは困難だった。最近、樹木伐採が行われた結果、ひな壇状の石段や階段などが露出した。
文化財として価値もある。
住宅跡は、綱ノ瀬川に沿った県道214号の槇峰手前にある日平銅山精錬所跡から100メートルほど上に位置し
、かなり勾配のきつい傾斜地を巧みに利用して造成されていた。
石垣は大量の石が比較的整然と積まれ、100年以上もほとんど壊れることなく残っている。

生活を物語る陶磁器片
当時の住宅は長屋で、現在まったく残っていないが、一帯には茶碗やガラスの破片が多く散乱しており、
人々の生活を物語っている。
住宅の一角には、学校の敷地だったと思われる比較的広い平坦地もある。校舎跡などは確認できないものの、
鉱山史や民俗文化などの研究には貴重な材料になりそうだ。

一時は3000人が生活
日平銅山の発見は古く、江戸時代初めの17世紀、本格的な採掘は明治に入ってからで、旧延岡藩主の内藤
家が経営した。採掘された鉱石は現地で精錬、延岡の港から関西方面に出荷され、内藤家の大きな収入源となった。最盛期は明治末期から大正初めにかけてで、一時は約600戸、3000余りの人が生活していた。」


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上の写真はネットで見つけた日平製錬所の写真です。


日平小学校が廃校になったのは大正4年、日平鉱山が閉山したのは大正5年で、今から100年ほど前です。
当時この地域に住んでいたころは日平銅山のことは知りませんでした。


Googleマップからこの地域を3D化し画像を補正してみると、はっきりと浮き上がってきます。

下の写真で下にある道路沿いの白い建物はNTTの中継所です。
ここにはかつて日平の社宅があり、製錬所があったと思われる場所です。
またここには「日平製錬所跡」の案内がありますがここからは日平銅山の住宅跡には道がないため行けません。




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